最上川から独立させた赤川の新川

榊田清兵衛の功績、京田川でも参考に

民報藤島2026年06月21日第1546号

 赤川で、記録にある最初の本格的な工事は、最上義光が庄内を領有(1601年~22年)していた頃、扇状地頂部の熊出付近で赤川を締め切り、鶴岡に向かっている流路を東側に変えて、城下一帯を水害から守ったとされます(図・国土交通省)。



赤川の放水路開削

 赤川を最上川から独立させ、新川掘削による日本海への直接放流工事は、1921(大正10)年計画変更、27(昭和2)年通水、36(昭和11)年護岸工事が終了しました。

 当時、最上川、赤川、京田川の合流点に近い広野村・袖浦村(現酒田市)は、洪水に悩まされ続けていました。

 広野村では、佐藤文治が中心となって、1899(明治32)年から3年をかけて京田川に堤防を築き、1904(明治37)年には袖浦村と共同で赤川筋に排水溝を造るなどの洪水対策に取り組んでいました。

 しかし洪水が収まることはなく、1917(大正6)年に最上川改修工事の付帯事業として、赤川の拡幅工事が計画されましたが、そのために30数軒の家屋が移転、280㌶に及ぶ農地が削減される。

 地元では、削減をできる限り縮小してほしいと陳情、嘆願を繰り返したが、受け入れてもらえませんでした。

最大の転機

 この苦境を救ったのは、秋田県大曲出身の衆議院議員・榊田(さかきだ)清兵衛です。

 榊田清兵衛は1918(大正7)年、社用で訪れた庄内で、たまたま同社の鶴岡駐在員から、赤川拡幅工事計画が農民たちを苦しめていることを聞き、この計画には無理があると感じ、工事を新川掘削に変更することが最善策であると考え、政府に働きかけました。

 地元有志も陳情を続け、ようやく1921(大正10)年、計画の変更が決定されました。 田んぼを潰すかわりに砂丘を掘って、新しい川を作る工事に着手、この治水工事により赤川は最上川から独立した川になり、洪水対策の最大の転機になりました。

 1928(昭和3)年11月、その功績をたたえ、酒田市奥井の三所神社境内に「榊田清兵衛翁碑」が建立されました。

 住民要望である京田川の最上川分離でも、参考にすべきでしょう。

 


資料:国土交通省「赤川」から


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